これは詩なのか、小説なのか‥‥‥『優しい鬼』
短歌、俳句の長い歴史を経、明治以降の現代詩の流れのなかで、人びとは確かに「詩歌」を身体の一部としてもっていた‥‥‥そう思うのだけれど、
わたしたちの日常に、いま「詩」はありません。
自分自身を省みれば、「詩」に強く惹かれたのはせいぜい高校のころまで、
光太郎や朔太郎に心ゆすぶられた記憶はあっても、
丸山薫以降、気になる詩人との出会いはほとんどありませんでした。
現代はリズムも旋律もない時代、‥‥‥つまりことばの音楽を必要としていない、そんな時代なのかもしれません。
そんな諦めに似た思いを、気持ちよく覆してくれたのが、
『優しい鬼』、
レアード・ハントの小説でした。
「むかしわたしは鬼たちの住む場所にくらしていた。わたしも鬼のひとりだった‥‥‥」
暮らしはじめた夫が、騙り屋の暴君だと悟ったときから女性の運命は狂いだし、
夫の不倫を見せつけられて、今度は女性の「鬼」がたちあがり‥‥‥それはまたあたらしい「鬼」をうんで‥‥‥
時代も語り手も入れかわり、どちらかというと悲惨で陰惨な話なのですが、
そして登場人物が白人なのか黒人なのか、
奴隷なのか子どもなのか、判然とせずにひろがっていくのですが、
読みおえると心に音楽が鳴っています。
「ひとりの男が上着のポケットに黒い樹の皮の切れはしを見つけてそれを捨てるのだけれど、つぎに上着を着るとやっぱりまたそこにあるのだった。井戸に捨ててもやっぱりそこにある。暖炉にほうりこんでもやっぱりそこにある。男が金ヅチでたたくと、樹の皮は目をあけて男を見た。そして樹の皮が目を閉じると、男はそうっと持ちあげて上着のポケットに入れ、以後はどこに行くにもかならず持ちあるくようになった」
これは「詩」‥‥‥小説ではありません。
翻訳は柴田元幸さん‥‥‥ブコウスキーやポール・オースターなどを専門に、美しい翻訳では定評のある方です。
ただ、翻訳だけでこの本の音楽性はうまれない、
たぶん、原書と翻訳がともに優れて詩的なのだろうと思うのです。
同一の作家・翻訳家で、以前にこの本を読みました。
もう一度読んでみました。
ひとり暮らしのノアは、愛する女性をもっていたらしい。
女性はどこか少し壊れていて、ノアも少し壊れている。誰もかれもが優しいが、その優しい人びとが、ノアから愛するひとを引き離す。
『優しい鬼』と同じように時間は行き来し、なぜ愛するひとと引き離されたか、次第に悲しい真相が浮かびでてきます。
やりきれないほど美しく悲しく恐ろしいお話、
そう、これも詩‥‥‥小説ではないかもしれません。
現代に純然たる「詩歌」は受けいれられないのかもしれない。
しかしひとの乾いた心は、どこかにリリシズムを求めつづける‥‥‥
そうした願いにこたえられる、ふたつの本の紹介でした。
鳥取の田舎者と思っていましたが、話す程に人間的に魅了され現在も付き合いがあります。
詩は人間の巾を広げるのが何となく分かって少しずつ読む様に。
三月うさぎ様の様には読解力がないのでどれが良い詩だと判断は出来ません。
読んだ後に何か残るのが良い詩なのかな。
わたしはたぶん「変わり者」であります♪
ただ「韻文」は、スポーツみたいにある種の才能・天才がなければ書けず、早々にわたしには無理だということが判明しました。その時点で、「書く」ことはあきらめました。ちょっと残念です。