朝比奈の切通し
俗に鎌倉七口、とよばれています。
そのひとつ朝比奈切通しは、鎌倉の東端、十二所の谷から始まります。
道標(みちしるべ)は道祖神‥‥‥後代の人々が土地の境としておいたものでしょう。
ご覧のように、古くは「朝夷奈」と表記するのが普通だったようです。
地下水の多いところを掘ったせいか、冬場の乾燥した季節でもじめじめとぬかるんだ道がつづきます。
沿道に碑や石仏のたくさん見られるのは、嬉しいところ
岩肌をくりぬいて斎場にしています。
ちょっとした磨崖仏が掘られていました。
岩を鑿で削った跡。
鏨(たがね)の形がくっきりと刻まれています。
石工たちの労働が、岩盤に馬の駆ける道をひらきました。
伝承によれば、道の掘削を命じた北条泰時もみずから石を運んだとか。
朝比奈切通しは政庁から見て不吉な丑寅の方角にあたります。
その出口を守護する熊野神社。
神社を過ぎれば終点も間近です。
鎌倉側同様、六浦口の土地の境には石の神さまたちが勢ぞろいされていました。
有料道路の下をくぐると見慣れた県道‥‥‥六浦から金沢へむかう道です。
そして金沢といえば称名寺‥‥‥執権北条氏の菩提寺でした。
つまり朝比奈切通しは、幕府の政庁と北条氏の聖地とを結ぶ、権力と信仰の道でもあったわけです。
称名寺の丘を登れば海むこう、房総半島が姿を見せてくれました。
鎌倉市から見れば丑寅つまり東北は表鬼門、神社が置かれたのは良く分かります。
道祖神が多いのもその為でしょうか。
工房の所在地の町名は丑寅と同じ意味で読みでもある艮町。
西本願寺から見れば東北なんですが、町と隣接している若宮神社は源氏諸侯に庇護を受けた大きな社でした。
今は祠の様に小さくなっていますが。
丑寅に対する恐怖は、今では想像できないほど大きなものだったようです。
比叡山は都の丑寅を守護する護国を旨としたお寺でしたね。
江戸で同じような意味を持たされたのが、上野の寛永寺でした。
ともに政権の東北方向に脅威を感じていたものでしょう。
古くは蝦夷にたいする土俗的恐怖が作用していたのではないかとわたしなどは思っております。
工房の所在地が「艮」と云うのは面白いですね。でもどこにたいして東北だったのでしょうか?西本願寺では起点となりにくいと思いますし、御所からは真南ですし‥‥‥
いろいろ興味は尽きませんね♪