『白鯨』とスターバックス
街でよく見かけるスターバックス・コーヒーですが、
なんとなくネットで見ていたら、店名の由来は『白鯨』からとられていると記されておりました。
なんでも最初は『白鯨』の捕鯨船の名をとって “the Pequod” にしようとしたけれど、
“pee” (おしっこ)“quod”(刑務所)みたいに聞こえるから却下
創業者のひとりが、『白鯨』にでてくる一等航海士スターバックが珈琲好きだと思いつき「スターバックス」と決めたと書いてあります。
ちなみにアメリカのスターバックスのホームページには、ご覧のように記述されております。
The name, inspired by Moby Dick, evoked the romance of the high seas and the seafaring tradition of the early coffee traders.
社名が『白鯨』に由来するのは事実らしい。
さてその『白鯨』であります。
60歳になったら昔読んだ本を読み返してみよう‥‥‥そんなこと決めて読みだした何十冊目か。
最初に読んだのは中学生のころでした。
読み返してみると記憶どおり手ごわい本で、正直放りだしたくなること一度や二度でありません。
執筆にあたってメルヴィルさんは実際に捕鯨船に乗船し、外洋を航海されたようですが、その経験談、クジラおよび捕鯨に関する知識と薀蓄、当時の船と航海術なんかを山と盛りこみ、例のエイハブ船長と白いクジラの本筋を埋め尽くしています。
でも読み通しましたよ、読書人の意地ですからね。
さてそこででてきた疑問‥‥‥
一等航海士のスターバックはもちろん重要な登場人物ではありますが、
ネットにあった「珈琲好き」なんて記述は見あたらない。
もっともわたしの読んだのは翻訳版でして、一字一句の厳密性から云うといささか怪しい‥‥‥
なので、図書館から原書も借りてまいりました。
つきあわせたうえで、スターバックと珈琲とが重なる記述はただ一か所‥‥‥それがここです。
‥‥‥外洋でほかの捕鯨船と出会い、その船長がピークォッド号を訪問する、その船長が下げている缶を見て、二等航海士のスタッブが、スターバックに「あれはきっと珈琲持ってきたんですぜ」と語りかけるシーン‥‥‥
念のため、原文で紹介いたします。
“What has he in his hand there?” cried Starbuck, pointing to something wavingly held by the German. “Impossible! -–a lamp-feeder!”
“Not that,” said Stubb, “no, no, it’s a coffee-pot, Mr. Starbuck; he’s coming off to make us our coffee, is the Yarman; don’t you see that big tin can there alongside of him? –that’s his boiling water. Oh! he’s all right, is the Yarman.”
でも二等航海士の言葉にスターバックは返事もしないし、あげく相手がぶらさげてきたのは灯油をいれる缶でした。
“Go along with you,” cried Flask, “it’s a lamp-feeder and an oil-can. He’s out of oil, and has come a-begging.”
スターバックが珈琲好きとは読めません。
しからば巷間の社名由来譚は、ガセネタなのか?
“Moby Dick Starbucks” で、英語のネットを検索しますと、会社に近い記事では船名“Pequod” 却下云々についていわゆる由来譚に近いことが書いてある。
でも、スターバックを選んだことについては、
当時東海岸の船乗りにはよくある名前だったとか、
南太平洋に同名の岩礁があって難破事故がよく起きたとか、そんなあいまいな記述しか見当たりません。
要するに、なぜコーヒー店の名称がスターバックでなければならないのか、必然性がなにもない‥‥‥
で、わたしの推理です。
こういった歴史があったのではないか‥‥‥
①社名の由来は、日本のネットで流布されているように、創始者のひとりがスターバックは珈琲好きと勘違いしたことによる。
②ほかの創始者は『白鯨』を読んでいなかったので、喜んで同意した。
③会社が大きくなってきたころに、誰か(たぶん外部のひと)がスターバックは珈琲好きなんかでないことを指摘した。
④すでに社名由来譚は流布していたので、困惑した広報担当はそれと異なる「海洋イメージ」を想起させる由来譚をこしらえ、置き換えようとした。
⑤しかし元の由来譚を完全に駆逐することはできず、ネットの一部に生き残ってしまった。
こんなことではなかったでしょうか?
アメリカでは『白鯨』を実際に読むひとが少なくなっている、そんな背景もあるのでしょうね。
ちなみに『白鯨』はジョン・ヒューストン監督、グレゴリー・ペック主演で1956年に映画化されましたが‥‥‥原作に比較的忠実なこの映画で、スターバックが珈琲を飲むシーンはやはりありません。