大江健三郎さんのこと
60年代から70年代、むさぼるように大江さんの本を読んだものです。
94年のことだったと思いますが、広島の原爆ドームを撮影する仕事がありました。
川沿いのドームの対岸にカメラを構えて、朝日が印象的にさしこむ瞬間をねらっていました。首尾よく太陽がのぼり、監督が「さあ回すぞ」とカメラマンに合図しようとしたときに、ドームの裾のあたりでひとの動いている気配が目にはいりました。
よく見ると、せっせと撮影用のレールを敷設しているようです。わたしたちとは別の撮影隊がはいってきたのですね。
そのままでは、撮影できないので、少しのあいだだけ先方に待ってもらうよう交渉することにしました。向こう岸へは、川沿いに100メートルほど下流の橋を渡っていかなければなりません。ぐずぐずしていると太陽の位置が変わってしまいます。全力で橋まで走り、渡り、Uの字にまた100メートル戻ってドームの前につきました。
NHKの撮影隊の方たちでしたが、事情をお話しすると快く機材をひきあげてくれました。対岸のクルーに手ぶりでOKの合図を送り(当時携帯は持っていませんでした)、また全力で200メートル走りはじめました。
途中川沿いのベンチにちょこんと座った人影が目にはいりました。たぶん番組に出演される方たちだと思いました。お待たせしてしまうのでご迷惑がかかります。直前で会釈をし、また走りだしたのですが、20メートルほど行ったところではたと思い当たりました。大江さんです。
あわててまたとって返し、ベンチの前で「失礼ですが、大江先生ですか?」と声をおかけしました。大江さんはあのお顔で「そうです」とうなずかれます。隣にいた青年は、ご子息の光さんでした。「対岸で撮影しています。すみません、お時間をおかけして申し訳ありません」と頭をさげるとにっこり微笑まれ、「いいえ少しもかまわないのですよ」とおっしゃってくれました。やさしい笑顔が心にのこりました。
大江さんと言葉をかわしたのはその一度だけですが、その後何度か大江さんをむかえたフォーラムの現場でお見かけしました。大江さんのアテンドを担当するスタッフから、「大江先生に往復の御車代を渡そうとしたら、『わたしは電車できますから、必要ないのですよ』ってうけとられないのよ」と、愚痴のように言われたこともありました。
その大江健三郎さんが、7月16日の「さよなら原発10万人集会」の演壇で語りかけています。わたしの位置からは小さくて見えないし、17万人の人々のなかで、か細い大江さんの声はあまり聞こえません。でも言いたいことはわかります。見あげると何機ものヘリコプター‥‥‥
爆音でますます聞きとりにくくなりますが、お話は途切れることなく続きます。
インテリゲンチャという言葉をきくことがなくなりました。ひとによってなにか上からの物言いに感じられるのかもしれません。けれどわたしは知の力を信じているし、その信仰は寸時も揺らがない。人々の理性とそれを表明する勇気こそが現実の闇をはらう光だと思っています。
大江さんは、インテリゲンチャの旗をおろしません。より高く、高く掲げていらっしゃる。
子どもや、孫たちにわたさねばならぬもの、もしそんなものがあるとすれば、それはわたしたちが積み重ねた知性と勇気の他にない‥‥‥わたしもまたそう信じています。
アメリカは開拓魂に溢れる正義の国ではありますが、その独善たる正義は往々にしてピントがずれています。
今世紀の世界の大事件はそのズレが大きく現れたものばかり、全てアメリカが原因です。
我国の原発もアメリカの戦略にまんまと乗せられた一部の新聞と政治家のお陰で充実してしまいました。
なるほど安価に電源が確保出来るのは間違いなかったのですが、地震大国の日本である事、廃炉にとてつもなく費用が掛かる事を頭の奥底に追いやっていました。
大江さんはずっと前からその事を指摘し続けられてきました。
今思うとずっと毛嫌いしてきた大江さんの言行が正しかった訳です。
このブログで大江さんの人となりの一部を知る事が出来ました。
有難うございました。
瀬戸内さんにも何度かお会いしているのですが、とても生き生きとしたかわいらしい尼さんです。
さまざまな経験を積まれたうえで、やはり言うべきことは言おう、という境地になられたのだと思います。