平家をめぐる京都 その3
清盛にかこわれ、捨てられた祇王のはなしは、このブログの「祇王寺」でご紹介しました。
今回も
氷雨に濡れる祇王寺を訪れましたが、記述は省きます。
かわりに小督(こごう)の話をすこし………
「林間に酒を煖めて紅葉を焼く(たく)」って詩を古文で習った方もいると思います。
天皇がたいせつにしていた紅葉の枝葉を下役人がかき集め、酒を暖める焚火にしてしまった………それを知った天皇が、叱るどころかこの詩を下役人が知っていたのかと褒め、なにごともなかったかのようにおさめたという話。
それが後白河法皇の第七皇子、
『平家物語絵巻』別冊太陽・平凡社より
第八十代高倉天皇でありまして、建礼門院徳子の夫、壇ノ浦で入水する安徳天皇のお父さんにあたります。
正夫人の徳子さんは清盛の娘のうえに天皇より歳上、すこし煙たかったのかもしれません。帝は「宮中一の美人」と誉れたかい小督を愛人にいたしました。
ところがこれが清盛にばれちゃうんですね。
清盛からすれば、婿にあたる帝が娘よりほかの女を寵愛する………しかもですね、この小督さん、帝のもとにあがる前に冷泉大納言隆房卿、ただしまだ少将のころですが、この卿とも浮名を流していた。この隆房さんも清盛の娘をめとっていますから、婿にあたる。
ふたりの婿をとられてしまったということで清盛は激怒します。
『源平盛衰記』によれば、清盛は「………小督があらん限りは、この世の中よかるべしとも覚えず、急ぎ召し出して失うべし」と宣う。 殺しちゃえ、と命じたのですね。
これを聞いた小督さん、とても宮中になんかいられません。ある夕方こっそり抜けだして行方をくらまします。
最愛のひとをうしなった高倉帝はすっかり意気消沈して、なにごとも手につかない。
ある月の晩、帝は「人やある、人やある」と人気のない宮中で叫びます。こたえたのは源仲國ただひとりでした。この仲國に帝は小督を探してまいれ、と命じます。
命じられた仲國さん、困っちゃいますよね。嵯峨のあたりに粗末な居を構えているという情報しかもっていない。ただ仲國さん、笛の名手でありまして、やはり琴の名手であった小督さんと宮廷で合奏したことがある。
「今夜は名にしおふ八月十五日の月の夜なり 折節空も曇なし、君の御返事思し召し出でて、琴弾き給はぬ事よもあらじ」(盛衰記)と、琴の音をたよりに探そうと決意しました。
釈迦堂清凉寺からはじめて嵯峨の一帯彷徨いますが、めざす琴の音は聞かれない。なれば、
桂川渡った法輪寺のあたりまで、
と思ったそのあたりで、民家のあいだからかすかに弾きすます琴の音色………これだっ、と思った仲國さんは
同上
「腰よりやうでう(横笛)ぬき出だし、ちツとなら(鳴)ひて、門をほとほととたたけば」(平家覚一)
同上
まさに、めざす小督の住まいでありました。
住まいの跡といわれる地にたつ石の塔………
紆余曲折ありますが、小督さん、帝の情愛にほだされてふたたび昇殿します。極秘の局をあたえられて娘もひとりもうけます。
ところが、これまた清盛の知るところとなりまして、宮殿から引きだされ、
この清閑寺にて、無理やり剃髪させられてしまうのです。
「翡翠の嫋やかなるを剃り下し、花色衣の御袖を、浮世を余所の墨染に替へけるこそ悲しけれ」(盛衰記)
出家させられた小督さんは、爾来いっさいの音信を断ち、嵯峨のいずれかの地で果てたということでした。
高倉帝の嘆きはなのめならず、他の心労も重なって、小督をうしなっていくらもしないうちに亡くなります。
ただ小督の出家した清閑寺に葬れとの帝の遺言ははたされて、いま、清閑寺の境内に陵はある………脇に小督の墓もあるとのことでした。
供養の碑が静かにときを重ねておりました。